は、ドイツ語でクラッチェ、Klatsche(手をたたく、拍手する)に由来します。
私の好きな歌の歌詞で、「みんな一緒に楽しく手をたたけば一人ぼっちはいない」(wir klatschen zusammen,und keiner ist allein)から引用しました。
なぜこの名前にしたのかは私の原体験に大きくかかわっています。
くらっちぇの由来となったドイツの歌謡曲(44秒以降サビにklatscheの単語が登場します。)
学生起業にかかわろうとする私自身にもともと起業経験があったわけではなく、むしろ無縁の経歴をたどってきました。
私は元長野県警察官でした。
警察官になりたいという強い気持ちがあったわけではありません。
大学を卒業し、フリーター生活の後に就職活動をし、警察官を拝命しました。
警察官人生の中で何かを成したいという思いはなく、のうのうと過ごしていれば安定した給料が手に入り、自分自身の生活は安泰だと信じ切っていました。
警察官当時の店主
しかしある出来事をきっかけに私はそれまでの自分自身の考え方に疑問符を投げかけることとなります。
私が交番勤務をしていたある時のことです。
自殺企図者の行方不明事案があり、私の班はインターチェンジで張り込みをしていました。
そこに手配されていた車両が通りかかり、男性1名を保護しました。
警察署で私は彼から話を聞く役割を与えられました。
どうしていなくなってしまったのか、何があったのかを聞きました。
しかし、彼から答えを聞くことはできませんでした。
落ち込んだ悲しそうな顔で何も語らず、ただうつむくだけでした。
そんな中、彼の両親が身柄の引き取りに来たところで私たちの仕事は終わり、彼は帰っていきました。
その後の彼のことを私は知りません、知る方法がありません。
警察官という立場では、私はそれ以上彼の心情に寄り添うことが出来ませんでした。
苦悩の末、自ら命を絶つ人が存在することを、話には聞いたことがありましたが、実際に眼前で苦しんでいる人を見ることは初めてで、私にとってはショッキングな出来事でした。
その日から私は、自分自身を含め、人々が「生きる」とはどういうことだろうと疑問が頭をめぐるようになりました。
そして考えれば考えるほど私は自分の無力感に絶望し、休職も経験しました。
それからほどなくして職場復帰したある時、私の先生からある言葉を教えてもらいました。
have to (すべきこと)より want to(したいこと) を考えよう
これが私にとって大きな転機となりました。
警察官時代以前から、私はいつも「~をしなければいけない」、「~であるべきだ」という強迫観念に駆られていました。
自分の身の丈以上に自分を大きく見せたいがために、等身大の自分というものから目を反らし続けてきました。
しかしそのようなスタンスはかえって自分に負荷をかけていたということを自覚しました。
そうやって自分自身を振り返った時に、自分が本当にやりたいことは人生に絶望を感じる人々に真正面から希望を与えたいということでした。
警察学校では「警察は治安を守る最後の砦」という言葉を幾度となく聞かされます。
しかし、私のwant toは「自殺しようとしている人を捜索して見つけ出したい」ではなく、「そもそも自殺しようと思わないようにフォローバックアップをしたい」ということを自覚しました。
もちろんそれは警察官でありながらできないことではありません。しかし、自分の中に沸き上がったこの思いを具現化し