)地内に於いて「横田切れ」と呼ばれる信濃川の破堤による空前の大水害が発生。
※「横田切れ」43,600棟が浸水。
(内、家屋流出は、25,000棟)
信濃川の流量を減らし、氾濫や堤防決壊を防ぐために、江戸時代から計画があった、1909年(明治42年)に本格的な工事が再開、1922年(大正11年)に通水、1931年(昭和6年)に稼働を開始。
約100年をかけて作った手掘りの河は、採掘した土砂は2,880万立方メートル、工事に携わった人はのべ1,000万人にも及んだそうです。 2022年、通水100周年を迎える分水路。
造るに要した100年。通水して100年。 これからの100年を私達は考えていきます。
※大河津分水路 洗堰・可動堰
新潟、越後平野。
新しい潟と書くように、湿田が多く、河川が3年に1度、氾濫する地域だったと聞き及びます。
産業の主体が農業だった時代が長く(百姓の語源は、数多くいる人の意味もある)、水害と共に歩んできたこの地域に、革新を起こしたものが、「金属加工と、大河津分水路」。
江戸時代、この地域の米の収穫量は県内でも悪く、苦しむ農家のため領主が進めた和釘などの鉄加工業。 農業の傍らそういったものを生産することで生計を立ててきた歴史があり、敷地に工場を持つ農家も見受けられます。
※現在の燕市
そんな「米がとれない土地」を一気に前進させたのが、大河津分水路。
水害から命を守り、良質田へと変えたこの大工事。
水稲と言われるように、水の中でも生きることができる稲だが、本来の姿は水辺植物であり、土を乾かすことで作業性も含め、良品質、多収穫に大きな効果があります。
この2つの事業が、今でも私達の生活に与えている影響は大きい。
※大河津分水路 洗堰
現在、酒米をつくる農家は数軒おり、燕市にも何点か日本酒はあります。
しかし、地元住人が常に飲んでいるものはなく、なにより非常に高額のものが多いのが現状です。
燕市5500ha農地があり、ほぼすべてが田んぼとして栽培されていますが、酒蔵がないこと、栽培が難しいことなど、酒米を育てる農家は1300軒中、2~3軒!
これだけの稲作地帯にも関わらず、日本酒文化が衰退していることは確かです。
「ハレの日(おめでたい日)も、 ケの日(日常の普通の日)も、 ケカレの日(元気が枯れた日)も、もの作りの町で働く皆さんに、ハレバレと楽しんでもらえるよう造った燕の純米酒です!」
※方言である「晴れとけや!」「はれとけいや!」などの晴れて欲しい!という意味と、どんな日も晴れやかな気持ちでいて欲しい!と願いを込めました。
1944年、新200号と菊水を交配し「交系290号」と名付けられた、新潟県でうまれた酒米「五百万石」を燕市と弥彦村を隔てる「西川」の傍で育てています。
「甘くも、辛くもなく調度良い加減」で、「燗でも冷でも常温でも飲めるもの」で、「ご家庭や飲食店で気軽に飲める<レギュラー酒>を目指したいと考えており、価格、味などすべてこれに順じたものにしたいと考えております。
※地元異業種での会議風景。毎回、遅くまで話し合いは続きます。
味の選定には、2人の専門家に相談し、参考にした日本酒は、菅名岳「九」と「鶴の友」(新潟県を代表する銘柄)を参考にし、弥彦酒造の技術と、柔らかい天然水で仕上げていくこととなっています!
「若い人達にも日本酒の良さや、愉しみ方」を動画やオリジナルカクテルの開発などで共有しながら、コロナウィルスも終息し、各種イベントも盛況に終え、2021