酒蔵の酒粕をケーキに溶かして至高の逸品が出来ました。
この至極のケーキ&クッキーを清泉川の厳選したお酒とペアリングにしてお届けします。
山形県庄内地方(山形県の日本海沿岸地域)は、四季折々の豊富な食材に恵まれ「食の都」と称されています。
2014年12月には、鶴岡市がユネスコの世界創造都市ネットワーク食文化部門の認定を受けるなど世界的にも認められ、「食」が原動力の1つとなり今まさに国内外から注目される地域となっています。
この庄内地域は、平安の昔より荘園として豊かな農産物の生産・収穫地であり、フランスでいう「シャトー」は、田園地区の格付けされた農園という意味において、庄内地域は間違いなく「シャトー庄内」でり、フランスブルゴーニュ地方のコート・ドール(黄金の丘陵)に匹敵する農産物の地域ブランドになります。
「シャトー庄内」の最大の農作物は広大な平野に作付けされるお米です。庄内地方には明治時代に誕生した「亀ノ尾 」という伝説のお米があります。この「亀の尾」は、日本中で19万ヘクタールもの面積で作られるようになり、日本の三大名品種に数えられています。
その有能な遺伝子は現在でもたくさんの銘柄米に受け継がれています。コシヒカリ、ひとめぼれ、あきたこまち、はえぬき、つや姫など、その後の有名ブランド米は、すべてこの「亀の尾」をルーツとしています。
現在の庄内平野の広さは、約39,000ヘクタールです。東京ドームなら8,300個分、東京ディズニーランドなら815個も入ってしまう広さであり、庄内地方「シャトー庄内」は日本のお米のふるさとです。
■酒田市日和山公園に立つ日本一古い木造灯台
■日和山公園に復元された「北前船」在りし日の勇姿
■庄内平野を縦断しているJR羽越本線を走る「特急いなほ」秋の勇姿
■1893年(明治26)に酒田米穀取引所の米穀倉庫として立てられた「山居倉庫」12棟が現存しており、今でも米倉庫としてまた観光拠点として使用されている
■山形県酒田市は昔から北前船で賑わった港町
江戸時代の全国の港番付で、酒田港は西の前頭二枚目に選ばれています。万治2年(1659年)に幕領米の輸送を請け負った江戸の商人正木半左衛門らにより西廻り航路が開かれ、酒田港は西廻り航路の起点となり、最上川の舟運より運ばれた紅花や米、各地の特産物が北前船に積まれ、日本海から瀬戸内海を廻って大坂、さらには江戸に運ばれました。
また、酒田は「西の堺、東の酒田」と呼ばれ「酒田三十六人衆」の中でも鐙屋(あぶみや)や本間家が大商人となり、特に本間家は江戸時代から戦前において日本一の大地主として知られており、『本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に』と謳われるほどの財力を誇りました。そんな大富豪を数多く輩出したのが酒田です。
【酒蔵の歴史と実績】
オードヴィ庄内の酒蔵がある酒田市浜中地区の成り立ちは、その昔、越前・越後から海岸伝いに北上してきた人々が、庄内砂丘地に水が涌く場所を見つけて定着したところが浜中地区になったとの逸話が残っており、中世以降(鎌倉期)は、海岸林を燃料にして製塩と漁業に従事していたとの記録があります。
その後、この製塩の燃料として伐採により草木が無くなり不毛の地となり、砂飛による甚大な被害が拡大し砂丘が荒廃していきます。元禄二年、俳人芭蕉の「奥の細道」には、酒田より大山に至る浜街道には一本の樹木も無いとあり、この砂飛被害を防止するために最も古くから砂防植裁に取り組んだのが浜中地区です。
1610年頃から始めた砂防植裁は370年