春までに、江古田の融解座上映会で大橋正英君という役者に出会いました。彼はアルバイトや短期の仕事で食いつなぎながら、いつでも役者系の仕事を受けられるよう、究極ともいうべき耐乏生活を送っていました。それは今もそうですが、いろいろ話をするうち感じる所があって、今回の靉光の役をやってもらおうということになり、二人で「復活」の習作を撮り始めました。絵画でも大きな作品を描く時にはスケッチなどで習作を繰り返しますが、絵描きの話である「復活」でもそれと同じことをやってみようと思ったのです。休日私の時間が空いているときに、大橋君と二人だけで郊外の自然があふれたところに出かけて行っては、靉光がぶらぶらスケッチをしたりするような絵を撮って、1年の間に2、3分尺の短編を3本撮りました。
また、山梨・上野原の山奥に友人夫婦と借りていた古民家の古い屋根裏空間をアトリエに見立て、そこでイメージを膨らませたりしました。泊まりで自由に撮影ができる古い建物などそうそうないので、実際の「復活」の撮影でも、靉光のアトリエのロケセットとしてこの古民家の屋根裏空間を使おうと決めていました。
2010年の秋まで、そうして習作や別企画の短編を撮りながら、シナリオの元になる断片的なメモを書き溜めていきました。言わば池袋モンパルナスの地霊たちに包まれて、自分の好きなことを自由に落ち着いてやれたこの1年は幸せでした。もちろん仕事もそれなりに忙しいことは忙しいかったけれども、バランスがとれていました。今思えば、それが2011年春の「大変」以前の、最後の手放しで映画の準備に浸りきれた幸福な日々でした。
■3.11東日本大震災からの「復活」とクランクイン
2011年正月は、年明け早々に神楽坂の<和可菜>を予約し、一泊してシナリオの書き初め式を行ないました。山田洋次監督ほか、日本映画の脚本家たちが数々の名作を書いたホン書き旅館です。順調に行けば、その勢いで夏までにはシナリオを書き上げ、クランクインするはずだった所へ、あの3.11東日本大震災が起きました。ほどなく福島第一原発での過酷事故が明らかになり、映画どころではなくなったわけです。あの時の多くのクリエイターたちがそうだったように、今こんなことをしていていいのか、という思いに囚われて、毎日のように起きる地震に心身落ち着かず、リアルにこんなに酷い事が起きているのに、数十年以上昔の絵描きの話に何の意味があるか? という思いを抱かざるを得ませんでした。映画に対する思いは急速に萎えていき、原発事故の影響に思いも乱れ、すっかり調子が狂いました。
そうした5月のGWに、意気消沈しつつ、長野の<無言館>に旅しました。「無言館」は窪島誠一郎その人が私財を投げうって作った美術館で、戦没画学生の絵を専門に収集した美術館です。結果的には戦争と池袋モンパルナスの世界が融合する場所、今回の映画のテーマに密接に関係したこの場所で、私は正にブレイクスルー体験をするに至ります。ひと言で言えば、生命を限られた若者たちの叫び、絵を描く事への熱情に出会ったのです。あの美術館の絵にはそういう力が今でも感じられました。現在の危機的な状況下、無力に流されて行く自分たちと、あの戦時中の人々とは、ほとんど変わりがないと実感しました。同じ状況の中で、それでも絵を描き続けた靉光と若者達がそこに居ました。彼らと、現在の自分自身がそのまま重なりました。「復活」を撮ることの意味を再発見できました。それ以降、社会世相に起こったことにも、じわじわとリアルタイムに影響されました。もしかしたら、「復活」