一月の火災で多くを失った、葉山一色海岸「UMIGOYA海小屋」の新たな出発を応援

海で泳ぎ、 マリンスポーツを楽しみ、葉山の甘い一夏を過ごすのです。

以前私は、『海小屋』から歩いてすぐのところにある、 一軒家に住んでいました。 東京で仕事を終え、横須賀線に揺られ、 猛ダッシュで葉山の家に戻ると、 ランドセルを玄関に放り投げて遊びに行く小学生のように、 靴からビーチサンダルに履き替え、 すぐに、海小屋に直行するのです。

道をわたり、足早に、砂の道を歩く。

おしろい花に手が触れると、薄暗い道に、子供の頃に嗅いだ、おしろい花の良い香りがしました。

御用邸脇の道の松の林を抜け、その先の浜に灯る柔らかな明かりの先に、『海小屋』がありました。

潮風を吸い込みながら、浜に出ると、 楽しげに語らうお客さんたちの声。

バーの明かり。

カウンターに寄りかかりながら、 冷たいビールを一口飲むと、 ようやく全身の力が抜けて、自分自身に戻れるのでした。

そこに、村野君がやってきて、 ポン!と気前よくスパークリングワインを開けてくれたり、 美味しいおつまみを差し入れしてくれたり。 そこに居合わせる、地元の人たちとの会話も心地よく、 海小屋は、私にとって、夏のオアシスでした。

海の家の規制が厳しくなる前は、 夜遅くまでビールや、ワインを飲みながら、 お友達とおしゃべりしたっけな。

夏が終わって欲しくなかったのは、夏が好きだからという理由もあるけど、秋とともに、海小屋が終わってしまうから。

私は、それぐらい海小屋を愛していました。

葉山の海辺のCafe文化、アート・シーン、音楽や、ダンス、 全ての文化や芸術に大きく貢献した、『海小屋』 ここで、私は、どれぐらいの『海小屋』のホスピタリティーに触れ、 たくさんの人たちと出会い、 音楽のインスピレーションをもらっただろう。 そして、生まれたのが、『Late Summer samba』という歌。

海小屋の倉庫が火災に遭ったことを知ったのは、数週間前のことでした。

日本中の『海小屋』ファンの多くが、 この悲しいニュースを知り、 ショックを受けました。

でも、今、村野君はまた立ち上がろうとしている。 『海小屋』再建に向け、クラウドファンディングにて、 多くの方々からのご支援をいただきたく、 私も、応援させていただきます。

潮が引くと現れる海の中の小さな島のように、 一色海岸に夏の間だけ現れる、『海小屋』 私たちはそこで、再び、友達と集い、 透明度の高い綺麗な海で泳ぎ、マリンスポーツを楽しみ、 葉山の甘い一夏を過ごすのです。 それは、2ヶ月の間だけ体験できる夢のような海辺の時間。 どうか、皆さん、ご支援、よろしくお願いいたします。

辻井隆行(元パタゴニア日本支社長)

初めてお会いしたのは、確か2000年代中頃だったと思います。アルガフォレストの柴田丈広さん、西伊豆コースタルカヤックスの村田泰裕さんという、僕がシーカヤックを学んだエコマリン東京に勤めていた時の恩師と先輩が、当時は珍しい、2泊3日のシーカヤックガイド向けのワークショップを主催したんです。講師は、シーカヤッカーという言葉を初めて使ったと言われるジョン・ダウドという伝説的な冒険家と、ジョンがバンクーバーにオープンしたエコマリンバンクーバーの初代チーフインストラクターだったダン・ルイスでした。僕はスタッフとして参加させてもらったんですが、ダンは柴田さんの師匠なので、僕にとっては師匠の師匠のお手伝いをするという機会でした。そこに村野さんが参加された時が最初だったと思います。

そのダンを訪ねてバンクーバーのトフィーノに渡り、カナ