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現地に行くことはできなかったのですが、父母ヶ浜には行った事があったので、記憶を辿り、今の風景や聞こえる音の動画をもらい、それに合わせて作曲を行いました。日本のウユニ塩湖と呼ばれる父母ヶ浜に浮かぶ茶寮と、そこに広がる風景の写真が幻想的でした。
芸術祭のゲストには小室哲哉さんが出演されるなど、注目のイベントでした。
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ここまでが、買い方のニューノーマルを想像して動いてきた結果です。
ここから少し自分の事を紹介させて頂きます。
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□どんな気持ちでここまできたか?
僕は高校を卒業してから、いわゆるバンドマンをしながら、飲食店でアルバイトする様な生活でした。
新宿路上で弾き語りをし始めた時、明らかに水商売の女性数名を連れたどこかの社長さんに
「下手くそ!もっと上手くなれ!」と罵声とジャリ銭を投げつけられ、必死に練習して、1年後同じ新宿で黒人から$100チップをもらうまでになりました。
音楽は洋楽の影響が強かったので、海外での活動を目指す様になりました。
3.11の直前、ニューヨークで制作してから帰国した矢先に東京で被災しました。
あの時も、音楽は不謹慎だという様な風潮もあり、チャリティライブの開催なども、有名人の様に大きな貢献ができるわけでもなく悶々としていました。
その時、復興にはそれだけではなく「忘れない事、継続して支援する事」の重要性を知り、3月11日を忘れない様にと、3.11直前に月間311km走る挑戦を行いました。
その後、マラソンチームに誘われ、気付いたら100kmマラソンに挑戦。
60kmくらいは平気で走れたけど、急に辛くなり、沿道の声援も卑屈に捉え「頑張ってる人に、頑張れって、酷だよな」と感じながらも、必死に前に進んでいると、今度は逆にその声援が後押しに変わっていき、気付けば最後は全力疾走で無事完走。
歌う側として言葉の重要性を知りつつも、ガンバレという四文字の言葉の素晴らしさを感じ、それを被災地にも届けたいと思い、復興支援金を集めながら走って日本縦断する事を決め、2014年32歳の時に挑戦しました。
波照間島から宗谷岬を目指しました。
ネットで非難もあったり、被災地の方がどう思ってくれるのか不安でいっぱいでしたが、宮城県石巻に入る時、前に車が止まり、90歳くらいのおばあちゃん駆け寄ってくれて
「忘れないでいてくれてありがとう」と声をかけに来てくれました。
この時、「あ、やってよかったんだ」と、救われる想いでした。
この時の事は、いつ振り返っても涙が溢れてきます。
111日3050kmを完走し、集まった支援金を被災地に届け、無事に挑戦は終わりました。
その後、モントリオールに音楽の拠点を移します。
レコーディングの仕事をさせてもらった時のエンジニアたちと
2016年に一時帰国して、知人にカフェの運営を任された事が発端となり、飲食を事業にしていく事になります。日本縦断の経験を生かし、防災組織を結成したり、まちづくりに関わらせてもらう中で、ただ音楽をやっているだけでは決して出会えないシーンを沢山目の当たりにしました。また、ビジネスの厳しさや人間関係など、ここには書けない壮絶な2年間で幕を閉じました。
2018年からは、今の妻とフードユニットGREEN MONDAYを立ち上げ、アレルギーや宗教の違いなどを超えて誰でも食卓の前では平等に楽しく食事ができる未来を作りたい、当たり前のその先を作りたいと、ヴィーガンのお寿司をメ