五代目の鍛造と精魂を込めた研ぎ技が創る肥後守ナイフの逸品定光作

うです。

鍛造に使う火箸

コークス(昔は炭でしたが火持ちと熱度が強いコークスに)

鞘:刻印

鞘を曲げる

焼き入れ後の成形研磨 数種類の研磨機を駆使して、荒研ぎ・中研ぎ・仕上げ研ぎ等を!

荒研磨

中研ぎ

仕上げ研ぎ(水研機)

仕上げ前の調整研ぎ

※ご紹介できていない製造工程も多くあります。また、工程は一部順が前後していることがあります。

ご了承ください。

明治27年(1894年)
初代 永尾駒太郎
創業者。美嚢郡久留美村平田(現:兵庫県三木市平田)で平田ナイフの製造を始め、後、肥後守の製造に着手。
二代目 永尾重次
肥後守製造を継承し、明治43年に『肥後守』を商標登録。
三代目 永尾章
肥後守製造を継承。
四代目 永尾元佑
肥後守製造を継承。四代目の時、肥後守製造業者が一軒のみとなる。
五代目 永尾光雄
肥後守製造を継承。新しい肥後守の開発に携わる。

肥後守(ひごのかみ)の歴史
平田ナイフの起こり
明治20年代、美嚢郡久留美村平田(現兵庫県三木市平田)に初めてナイフが製造されるようになり、村上氏及び永尾駒太郎(初代)がその製造に着手した最初の人たちだった。当時ナイフ製造は、まったくの手造りで刃部は鋼を地金に割り込み、十分鍛錬して製造したもので、鞘は真鍮及び黒染された鉄メッキを用いた。
鞘には様々な彫刻(人物・馬・花鳥・風景など)を施していました。一人の職人が一日に製造することのできる本数はせいぜい5~8丁程度だったという。
※播州特産金物発達史より引用抜粋

明治27年ごろ金物問屋『重松太三郎氏』が鹿児島から持ち帰ったナイフ を元に、携帯できるよう「チキリ(尾)」をつけて刃と柄を折りたためる構造を考案したと言われています。
当時取引先の多くが九州南部(主に熊本)だったことから製品名を『肥後守ナイフ』として販売したところ、現地で好評を得て販売数が大幅に増加しました。

刃は当時より両刃(V字断面の刃)だったと言うのが定説です。(この点は片刃の切り出しとは異なります)刃体の形状も少しずつ変わってきました。初めは切っ先のとがった鋭利な形状(笹刃)から四角になりました。また柄も縦曲げと横曲げがありました。(現在では縦曲げは定番製品では製造していません。)

明治44年に神戸市で開催された「神戸第一回貿易生産共進会」で、後の大正天皇が展示されていた肥後守を大変気に入り御買い上げになったことで肥後守ナイフの名声がより広まったと伝えられています。

明治32年に「肥後守ナイフ組合」が設立され、最盛期には登録製造業者40軒、肥後守ナイフの製造に従事する者が200名を数える大きな産業となりました。

しかし各地で肥後守を模造した粗悪品が多く造られるようになり、様々なトラブルが発生したため、明治43年「肥後守」の名称を商標登録し、これ以後「肥後守」は三木洋刀製造業者組合の組合員だけが使用することができる名称となりました。

海外の愛好家に人気の「割込」
ドイツ:ケルン国際ハードウェアメッセ出展
ドイツ出版本に掲載:JAPANISCHE SCHMIEDEKUNST(Rudolf Dick)
フランス雑誌「PANORAMA」特集
台湾:五金展 出展 他
私もケルンメッセには5~6回行きましたが欧米、中近東、アジアから多数のメーカーが出展

されており、米国のハードウエアー、中国の広東フエアーが世界の3大工具の祭典です。

三木金物古式鍛錬
三木金物古式鍛錬技術保存会では、鍛冶の伝統技術を伝えていくため、鋸(のこぎり)、鑿(のみ)、鉋(か