沖縄戦を戦った野戦重砲兵第23連隊の慰霊碑と兵士たちの想いを後世に伝える!

沖縄戦を戦った野戦重砲兵第23連隊の慰霊碑と兵士たちの想いを後世に伝える!
第二次世界大戦の開戦から80年。博多の提灯職人 伊藤半次が家族に送り続けた戦地からの絵手紙と、半次が所属した「野戦重砲兵第23連隊」の部隊誕生、沖縄戦と部隊の終焉、そして戦後 「沖縄戦の生き残り兵士(戦友)や遺族の願いや想い」などから、戦争や平和を考えるきっかけを作り、後世に語り継いでいきたい!!

はじめに・ご挨拶

初めまして。「戦地からの絵手紙」伊藤半次の孫 伊藤博文です。

福岡市博多区で老舗の提灯店を営んでいた私の祖父:伊藤半次は、昭和15年(1940)9月に旧日本陸軍に入隊し、その翌年に満州へ出征、戦地に赴きます。兵士として戦地に行ってから、遠く離れた家族に対して、愛情あふれる絵手紙などの書簡を400通も送り続けました。提灯職人として学んだ特技を生かして、絵具や色鉛筆で描いた色鮮やかな絵手紙の数々には、家族の事を思い浮かべながら想像して描かれた絵、 そして駐屯地の四季の移り変わり、異国の人々の暮らしぶり、軍隊生活での出来事や近況などこまめに色んな事を伝えています。

愛する家族と暮らす平穏な日々を夢見ていた半次でしたが、昭和19年(1944)秋に沖縄へ転戦し、昭和20年(1945)6月18日に32歳の若さで戦死しました。

平成29年(2017)に企画展「戦地からの便り 伊藤半次の絵手紙と沖縄戦」を開催した那覇市歴史博物館などの調査で、半次が所属していた野戦重砲兵第23連隊は、迫り来る米軍との首里攻防戦に臨んだ後、部隊は南部の糸満市へ撤退、昭和20年(1945)6月に玉砕したとみられることが分かりました。
野戦重砲兵第23連隊1180人のうち、生き残ったのはわずか148人と伝えられています。

好きな絵をいろいろ書いて送ります

妻の禮子(祖母)に届いた絵葉書に「何か一緒に張ってとっておいてくれ、また先で見ると面白いと思う。」と書かれていたので、祖母は、夫の生きた証だとずっと大切に持っていたのだと思います。絵手紙を送り続けた半次(祖父)は、いつか訪れる平穏な日々を夢見て、戦地の思い出を家族と語り合いたかったことでしょう。

家族の元に帰ることを夢見て 息子に会いたい・・・

「お母チャン この慰問袋へ入ったら お父チャンのところへ行けるの 僕お父チャンの戦争してるの見たいなぁ」。女性(妻、禮子、私の祖母)の膝に抱かれているのは、末っ子の允博(私の父、2013年死去)。 検閲があるので、「帰りたい、会いたい、戻りたい」とは書けななかったのでしょう。息子の言葉にして、その思いを伝えたのです。半次の気持ちを考えると本当に切なくなります。

慰問品届いて大喜び

福岡から届いた荷物(慰問箱)に大喜びする半次と戦友。 とにかく元気な姿を描くことで、家族を心配させないようにしていたのだと思います。手にはサンデー毎日、そして、中洲にあった百貨店「福岡玉屋」の箱も描かれています。

自分で風呂を設計するほどの風呂好きが・・・

満州では「入浴など3日に1回です それもほんとに汚くて困りますよ」。妻の禮子(祖母)が風呂に入る 姿を描き、「自分の思い通りに設計した美しい入浴場がほんとになつかしくてなりません」と書かれています。

成長した我が子の姿を想像

裏庭で実ったビワをつつく3人の我が子。 半次が満州に渡ったのは、末っ子の允博(右端、私の父)が生後6か月の時でした。何年も会えないままですので、子ども達が大きくなった姿を想像して描き、こんな日常に戻りたいと願っていたのだと思います。

願い叶わず、32歳で沖縄に散る

半次が所属していた野戦重砲兵第23連隊は昭和19年(1944)10月、本土防衛のため満州から沖縄へ転戦します。

400通もの便りを送ってきた半次でしたが、沖縄から届いたのはわずか3通。自ら描いた絵手紙ではなく、既製の絵葉書に文字だけを短く記したものでした。 最後に届いた1枚には「オニイチャン オネエチャント ナカヨクスルノデ