沖縄戦を戦った野戦重砲兵第23連隊の慰霊碑と兵士たちの想いを後世に伝える!

沖縄戦を戦った野戦重砲兵第23連隊の慰霊碑と兵士たちの想いを後世に伝える!
第二次世界大戦の開戦から80年。博多の提灯職人 伊藤半次が家族に送り続けた戦地からの絵手紙と、半次が所属した「野戦重砲兵第23連隊」の部隊誕生、沖縄戦と部隊の終焉、そして戦後 「沖縄戦の生き残り兵士(戦友)や遺族の願いや想い」などから、戦争や平和を考えるきっかけを作り、後世に語り継いでいきたい!!

スヨ サヨーナラ」とあります。一方で 「コノツギワ ナンノエヲオクリマショウカネ」とも書いています。次の便りも送るつもりだったのでしょう。

しかし昭和19年(1944)11月25日の日付が書かれたこの葉書を最後に、家族への便りは届くことはありませんでした。

祖父は、私の父(次男允博)が誕生した年に戦争に行きましたので、父には父親(半次)の記憶はほとんどありませんでした。当然その息子である私が祖父のことを知る機会はなく、祖父というより、現在の私の年齢よりふたまわり近く若い27歳で愛する家族を残し戦地へ向かい、過酷な沖縄戦で無念の最期を遂げた1人の青年といったイメージのほうが強く、その無念さを思うと胸が締めつけられます。

祖母(禮子)から半次の書簡を受け継ぎ平成25年(2013)9月に他界した父は、この書簡が平和を伝える貴重なメッセージとして生き続けることを願いつつ私に託しました。

父が他界したその年から、沖縄からの手紙3通と軍歴資料の情報などで、祖父の足跡をたどる旅がはじまりました。

死没者原簿に記された「沖縄本島小渡」は、現在の沖縄の住所には存在しない地名でしたが、その地には祖父が所属した部隊慰霊碑があり、様々な調査、当時を知る人からの証言、生き残り兵が書き残した「野戦重砲兵第23連隊抄史」などから、祖父の足跡にたどりつきました。
このプロジェクトで実現したいこと

後世に語り継ぐことの難しさと大切さ!

コロナウイルスの拡大によって世の中は一変しましたが、コロナ禍にあっても戦争のない平和な時代に生きていられるのは、国を思い、郷土を守り、日本という国を残して下さった先人達の尊い生命(犠牲)の上にあると感謝し、そして先人が語り継いできた想いを、戦争を知らない世代の今を生きる私たちが、後世へ語り継ぎ、伝え残したい。

 死ぬまで戦争は終わらない・・・。

野戦重砲兵第23連隊の中村氏(野重23会 事務局長)が浄土寺(沖縄県糸満市)の先代住職に語った言葉です。

祖父 伊藤半次の足跡をたどったことで、野戦重砲兵第23連隊の終焉地(祖父が戦死した地) に、生き残った戦友や遺族たちが昭和53年(1978)に建立した慰霊碑があり、自分たちが年老いてもなお戦火に散った戦友のことを想い続け、平成6年の50回忌法要まで行い、この回を最後とし浄土寺に野重23会(平成6年に解散、部隊生き残り、遺族などで構成)は、戦死した戦友達の永代供養と慰霊碑の管理含めて寺の住職に全てを託していたということがわかりました。

それから30年近く経過し、慰霊碑を建立した生還者(戦友たち)は亡くなられており、遺族も高齢化、野戦重砲兵第23連隊のように部隊の兵士がほとんど本土の人々で慰霊祭も途絶えてしまっている場合、伝え残していくことが難しい状況です。生還者や遺族が人生をかけて建立した慰霊碑への想い、平和への願いなどを後世にしっかりと伝え残さないといけません。
プロジェクトをやろうと思った理由

2年前、同部隊に所属し戦死した兵士の遺族から、野重23会が書き綴った「野戦重砲兵第23連隊抄史」「野重23会々報」を託されたことにより、満州そして沖縄戦の部隊動向が判明し、さらに戦後に慰霊碑が建てられた経緯など、浄土寺の住職からお聞きすることができました。

今年の終戦記念日(8月15日)、伊藤半次の書簡を全て書き起こし、絵手紙全てをフルカラーで収録、祖父がいた部隊の生き残り兵たちの証言「野戦重砲兵第23連隊抄史」をまとめた「伊藤半次の絵手紙〜戦地から愛のメッセージ〜」を出版(集広舎)し