“無名の日本人” 23歳のノンキャリア選手がサッカー大国スペインで這い上がる!

"無名の日本人" 23歳のノンキャリア選手がサッカー大国スペインで這い上がる!
幼少期から始めた大好きなサッカー。そして幼い頃からの夢、プロサッカー選手になり日本代表でW杯を優勝すること。しかし高校時代度重なる怪我で不完全燃焼に終わり、挫折を経験し夢を諦めかけた男がもう一度夢を叶える為サッカー大国スペインへ。"無名の日本人"が"サッカー大国"に挑み、夢を叶えます!

と勢いだけで意気込んでいました。

しかし僕の高校サッカー生活はそんな当時の自分の想像とはかけ離れた

“本当の現実”

と当時のそれまでの自分が経験してこなかった

“苦痛”

の高校サッカー生活が待っていました。

入学時、僕達は県リーグ2部に所属していました。1年生から2年生にかけてはリーグ戦にレギュラーとして何試合か出場をしました。

また、その1年生時を評価され、2年時には当時のトップチームにも帯同し練習に参加するなどもしました。

入学当初、リーグ入れ替え戦時
前列右から2番目

しかし練習に帯同するだけ、トップチームへ上がってもレギュラーとして出場することはなくトップの2軍で過ごす日々でした。

こんな状況に焦ってしまう自分は空回りし、怪我のループにハマってしまいました。

そして、

そんな日々の中、気づけば総体、選手権共にレギュラーとして選ばれることはありませんでした。

中途半端な自分に嫌気がさしながらプレーをしては空回りをし、復帰するも怪我をしての繰り返しに悩まされている間に気づけば2年が経ち、最後の年でした。

抜けられない怪我のループの中、自分の学年になって序盤の時期はレギュラーで出ることはほとんどありませんでした。

前列 左から2番目

そんな時、僕は当時2年時に担当されていた顧問にこう言われました。

『入学当初はお前と〇〇をチームの軸として考えていたが、今じゃ見る影もないな。』

ただ、この顧問の方は決して悪い方ではなく、選手の意見にもしっかり耳を傾けてくれる先生でした。選手に期待していることを直接伝えてくれ、モチベーションも上げるのが上手な方でした。

でも正直、今でも鮮明にあの風景を思い出せるくらいあの時の僕にとっては辛い瞬間でした。

そして、僕は考えます。

このままで終わってしまっていいわけがない。

これまでサッカーをプレーしてきたプライド、

そしてこんなに大好きなサッカーをここまでやってきて、結果を残せていない自分への焦り、

そして何より負けず嫌いであった自分が周りに置いてかれていく焦りや苛立ち。

最後の学年、最後のチャンス。全てが報われるよう全力で挑もう。そう心に決め毎日ボールを追いかけました。

しかしそんな心意気が、狭い視野での行動が、裏目に出てしまいました。

秋の時期の選手権県予選前、僕は何ヶ月か前から背中と腰に違和感と痛みを抱えながらプレーをしていました。

練習が終われば背中はガチガチになり、呼吸がしにくく、体が何倍にも重く感じました。休む訳にはいかず、当時思いつく限りの手当を試みましたが良くならずついには少しでも気を紛らわせようとコルセットを付けながら練習や練習試合などに臨んでいました。

しかし、良くなる兆しは見えず、とうとう1試合の前半分の時間も動けなくなり途中交代を余儀なくされました。

感覚的に軽症ではないことは分かっていました。でもプレーが全く出来ていないわけではなかった。こんなことを呪文のように自分の中でループしながら病院へ行き診察を受けました。

結果僕は、

腰を疲労骨折し、1ヶ月間の運動禁止と診断されました。

当時診察をしたのが7月の下旬。そこから1ヶ月間は運動禁止。そこから復帰をし練習や練習試合に参加して、そして試合へと考えても予選に間に合う可能性はとても低い状態でした。

僕は選手権に向けて最後の1番大切なレギュラー争いの時期をグラウンドの外で迎えていました。

そして、

チームは選手権県予選一回戦敗退。

僕の高校サッカーは不完全燃焼で幕を閉じ