学校に車で行くと友達からは「車で来ててうらやましい」「今日も車?」「俺も車で乗せて送ってよ」このような言葉を投げかけられました。普通の言葉ですが、当時の僕には矢のように心に刺さってくる感じがしてきて、しまいには裏口を叩かれ、いやみを言われているように感じ始めました。
学校から帰ってきてはそのつらさを誰にも話せず自分の部屋に閉じこもっては布団の中で声をあげて泣いていました。
学校では無理して笑い、自分を出せず、家に帰ると我慢していた物がでて泣いてしまう、いつしかそのような生活のループになっていた自分がいました。
そしてその矢の先鉾を母親に向けるようになり反抗期が始まりました。エスカレートして親を殴ってしまったこともありましたし、家出をしたこともありました。しまいには親も殺して自殺をしようと考えてしまったこともありました。
この文章を見ている高校までの友達や親はこの事実を知って大変驚くのではないかなと思います。
そんな僕の高校生の時の望みは早く大学生になって家を出たい、そしてなにより「友達が欲しい」、そう思っていました。
大学では本当にありがたいことにその願いが叶います。大学の4年間入学式から卒業式まで、多くの人との出会いがあり、支えてくれる仲間や先生がいていつしか自分の周りにはたくさんの友達ができていました。
望みが叶ったと思えた瞬間の入学式の写真。僕が写真を皆で撮ろうと個々にLINEで集めこの写真が実現しました。
そしてこんな自分と友達になってくれた人に対し僕はこれからも1つでも恩返しできていったら、周りを笑顔にできるそんな存在になれたらいいなと思うようになりました。そしてここにはそのような仲間達との確かな「ご縁」がありました。
大学生活を送る中でもう一つ分かったことがあります。それは「親へのありがたみ」でした。当たり前ですが下宿生活をしていると家に帰ってご飯があるわけではありません。洗濯も、風呂場掃除も全部一人で行わなければなりません。家賃だって自分一人で払うことができたことは恥ずかしいことにまだ1回もありません。そう思ったときに親への他でもない感謝と反抗期で様々なことを親にぶつけてしまったこれまでの申し訳なさがこみ上げてきました。
思えば僕は親からのたくさんの恩恵を受けてきました。帝王切開をして死にかけながら僕を産んでくれたのは母でした。敏矢と名付けてくれたのは母でした。 小児喘息持ちで救急搬送された僕のいつもそばにいてくれたのは母でした。 そしてその母と出会った父との間には確かな「ご縁」がありました。その母と父との間に生まれた僕も母と父と「ご縁」で結ばれている気がします。
だから僕はご縁を大切にするんです。そしてこのご縁を大切に僕はそのご縁を繋いで行く、そんな人になろうと大学生の時に決心しました。
そんな僕の夢は「縁閣寺」を作ることです。そしてその場に僕と出会いご縁で繋がった方を招待し皆が新たなご縁に巡り会えたり和気藹々とできるそのような空間にしていき、死後には世界遺産にしたいです。
ただ僕はそのようなコミュニティー空間を作ったことはありません。
そこで今回の「てらはうす」があります。
この空間は元々弊社の事務所と弊社の抱える「学生団体てらふる」の拠点となる場でした。
しかし、それだけではもったいないとそう思い、もっと多くの人が年齢問わずこの空間に気軽に訪れて誰かと「ご縁」で和気藹々と語り、遊び、ゆっくり利用できる皆にとっての居心地の良