朝鮮人強制労働の史実を伝えてきた「旧光顕寺・笹の墓標展示館」を再建したい

朝鮮人強制労働の史実を伝えてきた「旧光顕寺・笹の墓標展示館」を再建したい
2019年2月、北海道朱鞠内において戦時下強制労働の史実を伝えてきた「旧光顕寺・笹の墓標展示館」が積もった雪の重みにより倒壊しました。私たちは、死者の追悼、歴史の展示のみならず、日本・韓国・在日韓国/朝鮮人はじめ東アジアの若者たちの交流の場となってきた展示館の再建を目指しています。

びこまれました。ご遺体は光顕寺で一夜を過ごし、朱鞠内共同墓地裏の笹薮の中に埋められました。
当時の檀家の証言では、濡れたままの遺体が次々と運び込まれ、畳が腐り、床が抜けたといいます。

1943年、「東洋一のダム」と称された雨竜ダムが完成しました。
犠牲者は日本人約200人、朝鮮人約50人にのぼるとされます。

朱鞠内の戸数はダム工事(1938年~1943年)の最盛期には400戸を越え、飲食店やカフェなどが軒をつらね、ダム工事関係者を含め数千人の人口を抱える街でしたが、ダム工事の終了とともに人口が減少しました。

光顕寺はわずかになった檀家の力で守られてきましたが、ついに廃寺となり、朱鞠内歴史保存委員会に管理が任され1995年9月に「旧光顕寺・笹の墓標展示館」として新しい歩みをはじめることになりました。

私たちが光顕寺と出会ったのは、今から45年前の1976年9月でした。

代表の殿平善彦(浄土真宗・一乗寺住職)など空知民衆史講座のメンバーが朱鞠内を訪れた際、地元の方に光顕寺へ案内され、そこでダム工事・鉄道工事犠牲者の位牌(いはい)80余りを発見しました。

なぜ朝鮮人の名前が記されたご位牌がこんなにも沢山あるのか。

その後、調査が開始され、残された位牌と幌加内町に保存されていた埋火葬認許証から犠牲者の名前と本籍地が判明し、ダム工事・鉄道工事の犠牲の実態が明らかになっていきました。

1977年以降、光顕寺の檀家の方々によって朱鞠内で亡くなった犠牲者の追悼法要が行なわれるようになりました。

次第に私たちは、朱鞠内共同墓地裏に埋葬されている工事の犠牲者の遺骨を掘り起こし、遺族に遺骨を返したいという願いを強くしました。

1980年5月、朱鞠内共同墓地裏で犠牲者の遺骨発掘がはじめて行なわれ、雪どけのあとの笹薮を刈り取った土の中から、6体の遺骨が掘りおこされました。

以後、1983年7月までに計4回の遺骨発掘が行なわれ、16体の遺骨が掘りおこされました。

1992年3月には「遺骨奉持団」が訪韓し、朱鞠内で犠牲になった2体の遺骨を故郷の韓国へとお返ししました。

発掘された遺骨は光顕寺で改葬され、位牌とともに光顕寺に安置されてきましたが、檀家の減少で光顕寺が廃寺となってしまったことにより、1995年に朱鞠内歴史保存委員会が旧光顕寺の管理を引き受け、遺骨の安置とともに、強制連行・強制労働の歴史を展示する「笹の墓標展示館」として新たなスタートを切ることになりました。

1997年から新たな局面を迎えることになります。

代表の殿平善彦と韓国の鄭炳浩(チョン・ビョンホ、韓国漢陽大学文化人類学科名誉教授)の偶然の出会いをきっかけに、日本・韓国・在日韓国/朝鮮人の大学生などが合宿をしながら遺骨発掘をする「日韓共同ワークショップ」が始まりました。

はじめてのワークショップには若者を中心に約250名が参加しました。
10日間の日程で朱鞠内共同墓地裏での発掘が行なわれ、4体の遺骨を土の中から掘りおこしました。

昼間の発掘を終えると参加者たちは夜を徹して語り合い、学びあいました。

日本・韓国・在日韓国/朝鮮人の歴史における相互のへだたりは、ただちに超えられるものではありませんでした。

共に笑い、時にはぶつかりあいながら、参加者たちはこれまで出会ってこれなかった時間を埋めるかのように語り、友情を育みました。

その熱が冷めやまぬ若者たちは、翌年の冬に朱鞠内で再会することを約束し、1998年2月からは毎年、冬の雪下ろしワークショップが開催されるようになりま