京大のタテカン文化を取り戻したい

京大のタテカン文化を取り戻したい
京大周辺の文化的景観の一部だった学生・教職員・地域住民の立看板(タテカン)が、京都市屋外広告物条例を理由に全面的に禁じられました。京大のタテカン文化を取り戻すために裁判を闘います。

に水が適切に到るためには、不必要な整備を改めないといけない。クスノキが枯れる前に、一見綺麗なライトアップされたベンチを撤去する必要がある。不必要な綺麗化を演出するその価値観はクスノキを痛めつけている。そしてその価値観こそが京都大学がずっと着ていたタテカンという服をはぎ取った。大学の綺麗化の価値観が自由性のその美しさを理解していないことは明らかだ。なぜなら、代替案として大学構内に設置されたタテカン置き場にタテカンを設置するためには、学生が書いた絵の上に許可証の紙を貼らないといけない。この管理方法が芸術性にとっていかに危機的で絶望的なことか分かっていない。学生が書いた絵が泣いている大学で未知の研究の壁を越えるエネルギーが発生するとは思えない。

中川 敬さん(ミュージシャン/ソウル・フラワー・ユニオン)
「歴史的文化的景観」という時の、「文化」とは何か?管理されない個の息吹、営みから滲む生の躍動のことである。30数年前に初めて京大西部講堂でライヴを演って以来、東大路通りを走るたびに、紛雑したタテカンの、生気溢れる光景が象徴する「京都」に胸が高鳴るのである。
禁タテカンとか、たいがいにおしやす。いつかアホ見るで。歴史的文化的景観を守れ!

平野 啓一郎さん(小説家/[写真撮影:瀧本幹也])
たかがタテカン、されどタテカン。バカなものから深刻なもの、圧倒されるものと、「学生はいいなあ。」とつくづく感じさせるあの風景までなくしてしまって、大学も行政も、一体、何を目指しているのか?
あの雑多な表現の中から、何かが生まれるかもしれないし、何も生まれないかもしれない。それでもただ、好きにさせておくということにこそ、尊い精神があり、豊かさがあり、法的にその自由が圧迫されているのなら、保護する方法をこそ考えるべきだろう。なくなってしまえば、とにかく、ただ何もないというだけなのだから。
京都は歴史のある町だが、観光客で賑わう名所旧跡がある一方で、大学も多く、学生たちが、何かよくわからない新しいことを考えながら、のびのびと過ごしているところに魅力がある。
京大は、その象徴的な場所の一つで、日本の衰退を憂い、新しい豊かな活力を待望しながら、マニアックなまでに若者に息苦しさを強いるというのは、どういうことなのか。
面白いことがなくなっていけば、あとにはただ、面白くない社会が残るだけだ。
蒔田 直子さん(近隣住民/立て看文化を愛する市民の会)

 百万遍近くに暮らし、すでに30年になろうとしている。ご近所さんにとって京大のタテカンは、すっかり生活の中の馴染みの風景だった。ムスメたちが子どもの頃、保育園に通う道すがら百万遍のタテカンを眺めるのは毎朝の楽しみ、あれはよくできてる、これはダサいと批評しながら学生たちのメッセージを受け取り、それをご近所も楽しむ空気が確かにあった。カドの風呂屋の番台のおばちゃんと、長屋の隣のおっちゃんと、タテカンの出来の善し悪しをいじって楽しんだ。学生も必死で創作していて、街の批評に敏感、今でいう「地域との交流」は、当たり前にタテカンを通して実現していた。誰も迷惑だとは思わない、それが京大のご近所さんというもの。
 迷惑だメーワク、誰も言わないメーワクを振りかざし、表現や豊かな交流を一掃し、それが「町美化」なのだとしたら、長い時間をかけて培ってきた街と学生、街の大学の文化を一掃し、日本中にあふれるコンビニのような空間を創るのが、京都市や京大当局の言う「美化」なのか? 不粋を通り越して破壊だろう。何もなくなった百万遍の石垣あたりを通るとき、ここにかつて素