破天荒な僧の生涯と“縁”を描いた長編映画【真言アイロニー】を多くの方に届けたい。

破天荒な僧の生涯と“縁”を描いた長編映画【真言アイロニー】を多くの方に届けたい。
ADHDにより生きづらい人生を歩んでいた監督に多大な影響を与えた『平井尊士』(2017年12月23日逝去)というひとりの真言宗僧侶が生きた証・人々との関わり合いを描いた映画『真言アイロニー』。国内での上映予定のない本作品を“より多くの人に観てもらいたい”という想いでこのプロジェクトを立ち上げました。

うなものである。深夜2時の寝入りばなに叩き起こされ朦朧とする意識の中でその鼓膜を震わせたのは「あんまりいいお知らせではありません。 … いや、すごく、とてつもなく悪い連絡なんですが …」。ああ、エグゼクティブプロデューサー(プロデューサーにとってはクアイアント)が電話の向こうで何か言っているなあ、という程度だった。

「今朝方、平井先生が亡くなられました」

「… … … は?」

この後、何秒、いや何分間の沈黙があったのかは思い出せないし、今となってはどうでもいいことだと思う。ただ、とてつもなく長い沈黙がいい歳こいた中年男ふたりの間に流れたことだけは間違いはなかった。その後、別の部屋で寝ていた監督(監督は自室で寝ない。この時はたぶん台所の床で寝ていた)を起こし事実を告げることになったのだが、そこはADHDが成せる技なのか親子の血なのかはよくわからないが、「カッ」と大きく目を見開いて「よくあるの、そんなこと。ブドウ畑で …」と言った後、再び深い睡眠に落ちていった。何の夢を見ていたかは未だに本人すら覚えていない。約19年間見守ってきた息子の生態は痛いほど分かっていた所以か、他に自分が成せることを考えるべく、二日酔いで重い頭とまだ現実味を帯びずに停滞している思考回路を抱えたまま、いつもと変わらない一日が始まった。平井尊士がもうこの世に存在しないことを除いて。

『真言アイロニー』はフィクションとノンフィクションを織り交ぜた“ファクション”で描かれている。

例えば、キャスティングを例に取ると『新村ひなた』は監督であり、父親の『新村雅治』はプロデューサー、商社勤めの『松井英伸』はエグゼクティブ・プロデューサーとなっている。現実と同じように劇中でも、平井と新村は友人であり、新村にとって松井はクライアントである。

劇中に“ひなた”と“新村”が車で平井家(宝珠寺)に向かうシーンがある。シナリオ的には、その道中で平井の死を息子に告げる父親の苦悩、そして告白前後のひなたの感情の懸隔が描かれている。現実はこんなに渋く格好良い父親でもないし、監督本人も芝居掛かった“タメて”(間を取って)喋ってはいない。つまり、映画の脚本というのは、美しいものはより美しく、女好きな男はよりだらしない女たらしに、もともと辛抱強い人間はより“苦難に耐える”健気で魅力的な人物に描けるということである。平井氏の死後、監督が映画を作ると決め親父がそれらしい言葉を述べる、そういった“映画的表現(要素)”を絡めながらも、ノンフィクション(事実)に沿ったストーリーは、平井の公私ともによく知る人物でなければ到底無理であることは明らかだった。だから、監督の父親であり故平井氏と公私ともに付き合いの深かった私「石原雅治」が脚本・プロデューサーを担当した。

平井氏は生前、監督に「何でもいいから、映像か写真で“賞”を獲れ」という条件を出し、監督は平井氏との約束を守るためだけにこの映画が作られたのです。それ故に監督はこの映画を使っての金儲け(一般向けの上映)を拒み続けているのです。

監督は平井氏との約束を果たすため『海外映画祭』での受賞を唯一の目的とし、この映画による収益化を頑なに拒むことを決めていた。すなわち、国内外を問わず一般向けには公開しないとう考え方だ。

この記事が上がっている現在、この映画を観た者は、キャスト・スタッフ・関係者を含め、2020年1月18日に開催された完成披露試写会に無料招待された800人のみである。ただ、いくら監督が全国を飛び回りで自分で集めた資金で制作したといえども、キャストは