船渡と陸前高田」の風景を思い出していただき、「心理的脅威」に立ち向かう。
・この曲で紅白に出演し、地元の皆様に恩返しをする。
特に私の代表曲でもある「国道45号線」という楽曲。
実は、この動画は、ディレクターである名富啓さんとカメラマンの相原 秀睦さんが
無償で制作してくださったものです。
ですから今度は、しっかりと対価を支払ってお二人にお仕事としてお願いしたいと思っております。
この楽曲を、路上ライブでひたすら歌い続け、そして動画を制作しyoutubeで公開したところ、当時無名のアーティストであったにも関わらず、沢山の皆様の口コミで、この動画をご覧いただいた方が沢山涙を流し、大船渡市と陸前高田市に寄り添ってくださいました。
岩手県トラック協会様のCMソングにも採用していただくことが出来ました。
実は、、、、震災から9年も経過すると
震災前の大船渡や陸前高田の景色をすっかり忘れている自分がいることに気が付きました。
「確かこの辺さ駅あったがな?」
「あの店、どごさあったっけ??」
地元の友人と話していても
「いや、あそごにあったべっちゃ!」
「えーー?違うべど!あのお店の隣にあったべっちゃ!!」
のように、それぞれも忘れかけているために合致しない…。
だから…
忘れたくないのに、忘れてしまう
震災前の大船渡と陸前高田の風景を歌にして残すことにしました。
そう、私自身が
あの景色を忘れないために作った曲です。
※ゼン〇ン住宅地図で調べてから作った確実な情報ですのでご安心下さい。
昨年、各イベントでこの歌を歌っていく中で、地元の皆様から
「この曲CDになってないの?」
「思い出して泣げできたー早くCD作って欲しい」
という嬉しいお話を頂く機会が増えました。
また、地元の皆様だけでなく、日本一周をしている際に各地で
「うちの街と重ね合わせながら聞いたよー」
「岩手に行ってみたくなった!」
「大船渡や陸前高田のことは知らないけど、凄くいい歌だったからCDが欲しい」
と言っていただけることも多々ありました。
そして…
応援してくださっている皆様のお力で、なんとかCDを制作することが出来ました!!
しかし、たくさんの方にこの楽曲を聞いていただくために…
ライブができない今、どうすればいいのか?
本来なら、定期的に出演していたイベントで歌ったり、日本2周目を決行し、沢山の場所で歌いたかったのですが、コロナ禍の現状…
結論は一つでした。
映像に残して、沢山の人に見ていただくしかない…。
シンガーソングライターにとって「映像」は、
コロナ禍でアーティストとして生き残るための武器弾薬とも言える、
それはそれはとても大切な資産です。
特に、「あの大船渡」と「あの陸前高田」においては、私の伝えたい思いで溢れています。
私一人では力及ばず、このプロジェクトを立ち上げることにしました。
私は元々は地元大船渡市で金融機関職員として11年間、窓口でお金を数えるというお堅い仕事をしていました。しかし、夢をあきらめきれずに、親の反対を押し切って29歳で上京。ピアノは30歳を過ぎてから始めました。
「3年経っても芽が出なかったら大船渡に帰る」と約束をした3年後の3月11日。あの東日本大震災がおこり、岩手に帰れなくなりました。
自分だけ温かい布団で眠れること、ご飯が食べれる生活に罪悪感を感じ、自分の得意なことで故郷に恩返しをしたいと2011年6月より路上ライブで募金を集める活動をスタート。
8年も続けていたら、その金額