動会で弁当を持っていないことに気が付いたクラスメイトが、自分のおかずを一つずつ分けてくれ、風邪をひいている私に近所のおばあさんがカリンのはちみつ漬けを分けてくれたりと、周りにいた友人・大人たちは私の置かれている状況に気がついていながらそっと手を差し伸べてくれ、それを気にすることなく接してくれました。
自分では選べなかった家庭環境、ただそこに居ることしかできない状況の中でそうした心遣いがとても有難く救われたのを覚えています。
この時の経験が今の活動につながっており、アウトリーチを行う上で大切な基盤となっています。
そして24歳だった90年代、バブル崩壊から経済が悪化している状況で就職したものの人間関係で退職しました。続いてリーマンショックが起こり、今のコロナショックと同じように就労が困難な時期が続いた時があります。
現在40代前後の中高年は就職氷河期世代や、ロストジェネレーション”失われた世代”とも言われています。
私はというと、アルバイト収入での一人暮らしは生活が立ち行かず、退職してから1年ほど経って公園のベンチで寝て過ごす状況に陥りました。その展開の速さにただ戸惑うばかり、頼る家族もいない20代の未熟さもあって、当時は何もできずに負のスパイラルに飲み込まれるしかなかったのです。
そうした私のような専門家ではない者が制度の枠組みから外れ、社会で居場所をなくしている方とつながる仕組み作りをするということは前例のないことでした。後戻りしないように、そして必ずやり遂げると社会に宣言をしたかったのもあり、講師を養成するコミュニティーでオリジナルセミナーを作り100人の前で発表したことがあります。
コンテストにて発表の様子
その時の私は、講師としてあるまじき話すこともたどたどしく笑顔もなく、言葉のセンスもなくて失笑もありましたが、「あなただからこそ救える人がいる」「あなたの体験は同じように困っている人のためになる」と、励ましの言葉も多くいただきました。
当時、市民活動や社会起業、ソーシャルビジネスという言葉は今ほど広まっておらず、周りからは浮いた存在で、異端児として見られる風当たりを肌で感じていました、だからそのような言葉にとても救われたのを覚えています。
過去がどうであれ私は私、自分は社会に必要な人間なんだ、自分だからこそできることという小さい志だったものが、この時にいただいた数々の言葉のおかげで揺るぎない信念となり自分の軸を持つことができたのです。
これまでずっとあきらめずにやってこれたのは、後に続く人たちの指針となるように、自分がロールモデルになる!という覚悟と、学びを社会に還元する!という想いと、そうした挑戦を見守り応援してくださる方たちの存在があることに間違いはありません。
野宿者に至るのに一段一段降りていくのは容易だが、元の社会に復帰するには落ちてきたいくつかの階段を一度に上らなくてはならず、自力では事実上不可能に近い
という、社会運動家・作家/野宿者ネットワーク代表の生田 武志氏が提示した「カフカの階段」という概念があります
生田武志氏 カフカの階段
元の社会に復帰するということは就労だけではなく、いくつか越えなくてはならない壁があり、簡単なことではないということを知っていただき、社会から居場所をなくしている方たちがこのようなことにならないように、ご家族間で抱え込まないということ、教育・福祉関係の方々にはどうか民間の力を頼り、Mirai Terrace+の活動にお力添えいただきますようお願い