「山奥の名刹」保全と「限界集落再生」に努めております

「山奥の名刹」保全と「限界集落再生」に努めております
郷土井川の歴史的英雄、安部元眞公の菩提寺龍泉院、今は無住職の寺院となっております。その保全とともに、元眞公の歴史的偉業を顕彰しつつ、その知恵と勇気に学び「限界集落再生」に向けて努力していこうとするものであります。

上写真)。発足から3年目になる平成2年はコロナ禍の収束が見えない状態が続いて、予定していた行事はすべて中止になりました。
支援金の使い道・実施スケジュール いずれも令和3年に実施予定 
     見積り額:70万円

① 案内表示板設立、道案内表示板設立、墓碑表示板設立:   約22万円

                           10月中設立予定

➁ 参道を歩き易い歩道に整備する:         (予算)約20万円

                           10月中竣工予定

③ 門前市「安倍ふるさとの市」開催:11月14日(日)を予定:井川ビジターセンターと共催 

                                                   のぼり旗20本:(予算)4万円    

               広告用パンフレット3000枚:(予算)2万円                     

④ リターンの準備金                   (予算)35万円

⑤ 手数料支払い:                  (予算)約12万円

  上記の事業計画は資金がないとすべて実行できないものです。

 ※本年度は①~③の事業の内、①の「案内表示板設立、道案内表示板設立、墓碑銘表示板設立」のみに絞って実現していきたく計画しており、したがって支援金額は35万円を目標にしております。

※案内表示板:「安部元眞公と龍泉院」(原稿) 肖像画、菩提寺龍泉院の写真をご参照ください。

その先祖

 安部大蔵(おおくら)元眞は井川の領主諏訪刑部(ぎょうぶ)信眞の次男(長男は長嶋兵太夫)として生まれた。諏訪家は父祖の代から駿府・今川家に家臣として仕えていた。さらに先祖は信州・諏訪郡の領主として諏訪郡を治めるかたわら諏訪大社の神職、大祝(おおほうり)を兼ねていた。

駿府・今川家の時代

 今川家では武将の務めはもとより平時は大蔵(今の財務)を担当していた。今川家の館内では安倍郡の出身から「安部大蔵元眞」と称した。このころ人質となっていた松平竹千代・元康(徳川家康)とも知り合いになっていた。今川氏真(うじざね)の時代に駿府は二度にわたり甲斐・武田信玄の攻略を受け、元眞は井川の海野本定らと共に武田方に抵抗し、そのため武田方の井川への夜襲によって父母が殺害され、元眞家族と親族は浜松の徳川家康の庇護(ひご)を求めた。

徳川家康の武将として活躍 諏訪原城攻略

 徳川方の武将として遠州・武田方の山城(やまじろ)攻めにかかわり、ことごとく落城させた。これらの戦いに井川の金山衆も参加していた。とりわけ武田方の島田市菊川・諏訪原城の戦いでは金山衆投入によるトンネル掘削によって一晩で落城させた。

家康から「感状」賜る

 その後井川へ戻り、井川の金山を支配していた武田方勢力を追い返した。その一年後、これらの功績により、徳川家康から「感状」を授与されたがその一か月後、天正五年(1576)年十月十五日(旧暦)、老いのため井川で亡くなった。六十五歳 寺名 龍泉院は安部元眞の戒名にちなむ

その子孫 二万石余の大名へ

 元眞の子安部信勝(のぶかつ)は徳川家康の江戸への転封(てんぽう 国替)にともなって武蔵・岡部(埼玉県深谷市)五千二百五十石の旗本として移住することになった。武家としての職務は元眞の孫信盛(のぶ