祖母・鳥濱トメと母・礼子から受け継いだ『薩摩おごじょ』を絶対に護りたい!

祖母・鳥濱トメと母・礼子から受け継いだ『薩摩おごじょ』を絶対に護りたい!
私の祖母は鹿児島知覧で私財を投げ打ち特攻隊員の面倒を見た”特攻の母”鳥濱トメ。その次女で私の母・礼子が、生き残った特攻隊員の方々が集う場所として鹿児島郷土料理の店『薩摩おごじょ』を東京で始めました。今から50年ほど前のことです。新型コロナの影響が長引く今、お店を残すために再び立ち上がりました!


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祖母・鳥濱トメと母・礼子から受け継いだ『薩摩おごじょ』を絶対に護りたい!
7 ~ 9 分
はじめに・ご挨拶

 当店「薩摩おごじょ 新宿店」は、先の大戦において陸軍特別攻撃隊(特攻隊)の出撃基地となった鹿児島県知覧町出身である私の母 ”赤羽礼子” が、50年以上前に始めた歴史のあるお店です。

母は ”特攻の母”といわれた鳥濱トメの次女で、自らも”なでしこ隊”の一員として戦時中は特攻隊員の身の回りのお世話をしていました。”なでしこ隊”とはいわゆる女子挺身隊のことで、知覧高等女学校の校章の「なでしこの花」にちなんで名付けられました。私の祖母である鳥濱トメは、知覧町で陸軍指定食堂となった「富屋食堂」を営み、私財を投げ打ってまで多くの特攻隊員に尽くし、無限の愛情を注ぎました。その特攻出撃を見送るたびに、ご遺族へ出撃の様子をを綴った手紙をしたためたりしていました。

祖母・鳥濱トメと特攻隊員

昭和20年4月12日
知覧から出撃する穴澤少尉を見送る”なでしこ隊”

戦後20年ほど経って、戦争中に特攻隊員として出撃して様々な理由で生還した方が、ひとりまたひとりと母のもとに集まってお酒を持ち寄るようになりました。戦友たちと昔話に花を咲かせ、軍歌を歌ったりして深夜や早朝まで飲み明かす日々が続きました。そこで母はトメに相談し、祖母にこう言われるのです。「私は戦争中にあの方たちの面倒をみた。今度は礼子が生き残った方々の面倒を見なさい。」と・・・。生還した方々の心を癒す場所として母は、東京でお店を始めることにしたのです。

それが、「薩摩おごじょ 新宿店」です。

上の写真に写っている、トメの左側で目をとじておられるのが、特攻出撃したものの生還され、戦後に日本全国を巡って、特攻で亡くなられた特攻隊員の遺書や遺品を何十年もかかって集めながら慰霊に奔走し、「知覧特攻平和会館」の初代館長となった「板津忠正」さんです。知覧特攻平和会館は今では多くの方が訪れている場所となりました。そして、板津さんも「薩摩おごじょ」に何度も来てくださいました。

店名の「薩摩おごじょ」とは鹿児島の女性(美人)という意味で、気立てが良い・優しい・芯が通ったしっかり者などというイメージが定着していますから、母にピッタリであったろうと思っています。
その母も平成17年にこの世を去り、現在はトメの孫である私「赤羽潤」と、女将を任せた妻とふたりで母の代からの常連さんや、足繁く通って下さる皆様をお迎えしております。もちろん、お店を手伝ってくれているバイト仲間もおります!

薩摩おごじょ新宿店初代店主 母・赤羽礼子

そんな大切なお店「薩摩おごじょ 新宿店」も、昨年春前頃から猛威を振るい始めた”新型コロナウイルス”感染拡大の影響を受け、昨年4、5月は緊急事態宣言や東京都の自粛要請に沿って休業を余儀なくされました。そして、昨年は5月26日から何とか営業を再開することができましたが、ご来店者数は昨年の3分の1以下という日々が続き、それは現在も続いております。前回行ったクラウドファンディングでは皆様から多くのご支援を頂戴し、なんとかお店を継続していこうと精一杯頑張って参りましたが、日に日に新型コロナの影響は厳しさを増している状況です。東京都では依然として新規感染者数は増大し続けており、1月9日からまた緊急事態宣言が発出されるかもしれず、本当に危機的状況から抜け出せないでおります。空気が乾燥しやすい時期となった今、感染者は激増し続け、お店は開いているのにお客様は誰一人来