ケニアの田舎町に職業訓練校を建て、若者たちに技術を身につけさせたい!

ケニアの田舎町に職業訓練校を建て、若者たちに技術を身につけさせたい!
急速な経済成長を続けるケニア。学歴社会になりつつある一方で、様々な事情で進学できない若者たちは定職に就けず、家事手伝いや単純な日雇い労働をしながらその日暮らしをせざるを得ず、貧困から抜け出すことができません。技術を身につける機会がない田舎町に、職業訓練校を建てるためのご支援をお願いします!

。母も兄も幼い子どもたちの命を預かる仕事には猛反対でしたが、私の心は決まっていました。父はすでに小学4年生の時亡くなり、中学2年の時にが母が他界。兄の世話で高校に進み卒業と同時に上京、保母学校に進むべく準備を始めました。幸い叔母夫婦の援助で1年間はアルバイト生活に明け暮れていました。専門学校の夜間学校に入学しましたが厳しい学校で、合格点を取るまでは進級できない仕組みでした。追試を受けるにはテスト代がかるのですが、バイト生活の私には追試を受ける余裕はありませんでした。バイトに勉強に明け暮れた日々でしたが、合間には現場実習もありました。今考えれば我ながらよく頑張ったと思いますが、目標に向かって進んでいた時の苦労は苦労とは思えず、充実し輝いていた青春時代でした。

無認可保育所でバイト めでたく卒業した後は、私立の保育園、乳児院を経て、1963年都立の養護施設勤務を拝命しました。1969年渋谷区保育課に移動となり、区内5か所の保育園へ移動し30年勤務。その後20年間を園長として勤め、定年退職と共に渋谷区学童館へ再雇用すると共に、中野区にある宝仙短期大学へ非常勤講師として招かれました。また、板橋区にある淑徳短期大学へ非常勤講師としても招かれました。児童館を4年で退職、宝仙大学は6年目に退職し、淑徳は退職する2年間は昼と夜間学校に授業を受け持ちました。夜学では自分が夜間で学んでいた頃のことを思い出しながら教壇に立っていました。

 或る講演会に参加した時、そこの主催者が支援する、ケニアの養護施設の児童の里親募集を目にしました。大好きな、また行ってみたい国の子どもの里親になるのも何かの縁と思い応募しました。それがきっかけでケニアへの道が開けることとなりました。

街を一歩出ると野生動物たちが! ケニアは私が思っていたジャングルや、底なし沼、人を包みこむような大輪の花もありませんでしたが、首都ナイロビから250キロ南下したタンザニアとの国境にあるロイトキトクへ行く道路には時々キリンやシマウマが道路を横切り、これが日常生活の一部であることに実感がわかず、夢を見ている想いでした。学校のあるロイトキトクは、見渡す限り一面のトウモロコシ畑。どこからでも見える雄大なキリマンジャロ山は、日々姿を変えて私たちの目を楽しませています。貧しくても皆明るく元気に笑っているケニアの人々に、自らの手で働き切り開いていく腕があったらと、思う日々であります。
現地サポートメンバー
エスタ・ンジョキ/サウス・マウント・ンガマ・アカデミー校長

学校創立当初から校長を務める。責任感の強いパワフルな女性。
職業訓練校開校準備のため、現地で関係各所へ奔走中。
ハンナ・ノキア /ウシリカ・インターナショナル会計

専門学校でコンピュータを専攻。
マリア・モラ  /ウシリカ・インターナショナル秘書

専門学校で縫製を専攻。細かい作業が得意。
築地美津子  /ウシリカ・インターナショナル運営委員

ウシリカインターナショナル立ち上げメンバーのひとり。
現地で秘書を務め、現在は日本を拠点に、ホームページなどを担当。

右から 都丸 矢野 築地

右から
エスタ ハンナ マリア
皆様へ 最後のお願いです

 先の見えないコロナ禍の中、健気に明るく、家事の手伝いや勉学に励む若者たちの輝く瞳が悲しみに曇らないよう、未来に自信もって前進できるよう、その礎を築いてやりたいと切に願っております。そのためには皆様のお力が必要です。

どうかご協力ご支援のほど、よろしくお願いいたします。

■特定商取引法に関する記