戦没者の孫世代が太平洋戦争について調査し発表するレンタルギャラリーをつくりたい

戦没者の孫世代が太平洋戦争について調査し発表するレンタルギャラリーをつくりたい
姫路市広畑区東新町山陽電鉄網干線夢前川駅徒歩4分の空きビル2Fを、ギャラリー兼シアタールームとして改修し、戦没遺族及び平和を希求するすべての人のための学習施設として使用できるようにしたい。プロジェクト実施により、日本人としての誇りを取り戻す若者が増え、勤労意欲の高い国家の形成に寄与するこを目論む。

地域のつながりが強くなっていくことを実現したいと考えています。また、新日鉄広畑の業務縮小により、空き家空きビル等が増えつつあるこの地域で、歴史再考や地域の魅力を掘り起こすようなイベントを行っていただくコミュニティスペースとして活用いただくことで、夢前川駅周辺、しいては広畑地域に関する地域創生の実現をはかっていきたいと考えています。
 私たちの地域のご紹介

 広畑区東新町、山陽電鉄夢前川駅周辺街は、播磨地域を流れる夢前川の側に立地し、近くには南北 総距離5,310m 自転車専用道路 夢前川サイクリングロードがあります。美しい夢前川と播磨灘の景色を眺めながらのサイクリングを楽しむことができます。同じく、駅から北へ徒歩20分、夢前川のほとりには『広畑天満宮』が大きく社殿を構え、近くには作家の司馬遼太郎文学碑が建立されています。司馬遼太郎氏の祖父である福田惣八氏が広畑出身であることからゆかりがある地となっており文学碑ができております。

 夢前川駅徒歩5分のところには、英賀方面へつながる歌野橋があります。歌野の『歌』はアイヌ語で『オタ』= 砂地という意味から派生したとお聞きしております。姫路市広畑区は、昔天保年間には 堤防の決壊も多く、非常に農作物の収穫に苦労していたとの記録がありました。三木勘兵衛という方が、官兵衛新田を開発し、この地域の農業を強化したとの記録が残っています。広畑は兵庫県内で数少ない蓮根の栽培が盛んな地域です。湧水の田が多かったことから水田に向かない田が多く、蓮根栽培をはじめたとのことでした。

 もともとこの地域は、廣村と呼ばれていましたが、昭和12年(1937年)に日本製鉄広畑製鉄所ができたことにより山陽電鉄網干線が広畑駅まで昭和15年に開通し、当時から大変ににぎわいを見せるようになりました。戦後も製鉄所は隆盛を極め大いに発展することとなりました。

 製鉄所とともに発展した広畑の街並は碁盤の町割に、製鉄所と関連してできた多くの企業のオフィスが立ち並んでいます。広畑ならではの景色です。

 夢前川駅南側には、大型ショッピングモール、メガドンキ、ホームセンタームサシ、ニトリなどが立ち並んでいます。近く製鉄記念広畑病院は、姫路医療センターと合併し、姫路駅周辺施設に移転することが決定していますが、今後あらたに病院施設が転入してくる予定となっております。
プロジェクトを立ち上げた背景

 昨年令和2年8月13日 合同会社t&tコミュニケーションズの代表社員高橋利典は、父高橋清の初盆を迎えました。父、高橋清は、昭和16年に生まれ、祖母と曾祖父、曾祖母と一緒に暮らしていました。高校の入学式に出席しているさなかに、農家の貴重な人手として、 『お前に勉強してる時間などないんや』といって 連れ戻され、それから高校に行くことができずに勉学を断念しました。瓦施工販売の会社を設立し身を粉にして働き、私たち4人の子供を一人前にし、余生を楽しみ生活をしていました。日々野山をかけまわり農作業をしたり山林作業をしたりしながら、人生をおう歌しました。ここ数年病気がちになり、一昨年令和元年10月24日に享年78歳でなくなりました。

 高橋清の父の祖父與吉は太平洋戦争で、比島バターン半島方面にて 亡くなったとお墓に刻まれていました。父が亡くなる三年ほど前から、私は病床につく父に時折訪ねてみました。お祖父さんはどんなふうに亡くなったのか?亡くなったときの戦地での記録などは残っていないのか? 興味深かったので いろいろ父に尋ねてみましたが、まるでわからなかった、ほとんど