情報がなかったのだと、言うしかありませんでした。それほど悲しそうな顔はしていませんでした。父にとって自分の父に関する情報が何もないことが当たり前のことであったので、それ以上のことも何もなかったのです。そんな父が不憫でなりませんでした。私は、思い立ち、古書店で『姫路歩兵第三十九連隊史』を探しあて、祖父の戦争従軍記録をたどりはじめました。連隊史を読んでも、まるで手掛かりをつかむことができず、連隊の 1945年 益々悪化する戦局と、厳しく形成の不利な戦いばかりを読み、ますます 気持ちがふさいでいくばかりでした。
連隊史の書籍の中に、祖父の名前をやっと見つけることができたのは、皮肉にも父が亡くなって後、令和2年の3月頃だったと記憶しています。やっと父に、報告ができると思い安堵していたときに、兵庫県加古川市で渡邊五郎さんという方が同じく連隊史を要約した展示資料を寺家町で披露しておられたので、見に行かせてもらいました。なぜ 渡邊さんが連隊史を要約して披露なさったのか? 同胞達に死に後れ自分はマラリアにかかって除隊し、生きながらえたことに、一生負い目を感じながら生活された 渡邊さんのお父さんに思いを馳せて、その資料の要約をなさったとのことでした。
私は渡邊さんに背中を押され、初めて人生のうちで、思い切って、 父の初盆に向けて、資料の要約をして、宍粟市の展示場で 資料の展示をすることを決意しました。私のゴールは 令和2年8月13日と決まり、毎日少しずつ 祖父の所属した 第二大隊本部が どのような活動をしたのか?ということを調査し、資料にしていきました。第二大隊本部は、最後はナチブ山に立てこもり、必死の抵抗をしてほぼ全滅したことがわかりました。第二大隊長 山本庄蔵少佐が 血染めの軍旗を持ち帰り生還されたとの記録にいきつくことができました。8月13日無事に宍粟市山崎町の『よいまち会館』で、想いを遂げることができました。当日 1日で30人くらいの方が よいまち会館を訪問くださり、太平洋戦争について、当時を知る人達からたくさんのことを聞き、戦争のことをもっと知りたいという若い人達とたくさんに出会うこともかないました。
おりしも 令和2年には、私の事業所もコロナ禍に見舞われ、私どもの会計事務所も生き残りをかけて、不動産の経営に挑戦して、不況下でも大家さんにアドバイスが送れるような特色のある事務所にしようと考えました。その一環で我々合同会社t&tコミュニケーションズも不動産経営に着手し、広畑夢前川駅に3F建てのビルを購入することを決意しました。物件は既に購入取得済です。
このビルにつきましては 1Fに スナックを経営されている店子さんが入っておられ、現在3Fはリフォームが完了し入居者の方を募集している状況です。2Fも以前はスナックの店舗を経営されている店子さんが入っておられましたが、ここ10年以上空き店舗の状況が続いています。空き店舗の状況が長く続いたため、2Fへあがる鉄骨階段はかなり老朽化しメンテナンスが必要な状況になり、維持費も大きくかかるようになっています。広畑区はかつて新日鉄広畑の会社の方が多く周辺にお住まいで、大変にぎわっていましたが、現在は以前ほどの賑わいはありません。大型店舗のニトリやメガドンキ等が進出しており、最近では製鉄広畑病院の姫路駅付近への移転が決まっていて、その跡地に別の病院ができることがすでに決定していますので、これから賑わっていく地域ではあります。
広畑夢前川駅徒歩4分のこの物件を 地域の皆さんに利用していただくためには、どの