実施理由/背景
日・米・欧の美点の結晶:木造車両の到達点
鉄道車両モハ1は、大正12年(1923)東京の蒲田車両の製造です。車体の意匠(デザイン)はアール・ヌーヴォーの影響が濃く、技術的には下見板張(したみいたば)りの外観、曲物(まげもの)を多用して美しさと機能性を際立たせた調度品など、明治末期から大正期に爛熟(らんじゅく)した和風建築の粋(すい)を集めています。台車は東京市電・京都市電が採用し、一世を風靡したアメリカのブリル社製です。つまり、モハ1は日・米・欧の美点の結晶として生まれました。
ところが、製造された年に関東大震災が起こり、世の風潮は一変します。デザインの主流は優美さから単調・簡潔に移り、構造物の耐火性が叫ばれて、車両は鋼製への切り換えが進みます。伝統美と海外の流行・技術を総合したモハ1は、時代の精華から日本木造車両史の掉尾(とうび)を飾るあだ花になりました。
プロジェクト内容説明
モハ1が復活する理由(わけ)
モハ1の走った蒲原鉄道沿線は、江戸時代後期に立て続けに発見された鉱山(粟ヶ岳(あわがたけ)鉱山・川内谷(かわうちだに)鉱山)の分布と重なっています。明治42年(1909)、粟ヶ岳の鉱物を消費地まで鉄道で運ぶ計画が持ち上がります。この計画は幻に終わりますが、地内には一攫千金を夢みる山師が全国から集まり、なかには犬養毅(のち首相)と親しく、孫文の中国革命を支援した渡邉元(はじめ)のような人物もありました。
やがて新潟県初の電気鉄道事業として発足した蒲原鉄道は、開業と同時にモハ1を投入し、まず五泉駅ー村松駅(各五泉市)をつなぐ4.2kmを、昭和5年(1930)に加茂駅(加茂市)まで延長されて総計21.9kmを走りました。沿線の大部分は山野のめぐみを最大の産業とし、住民は、爪の先に火を灯すような質素な生活をしています。このことが、保存への伏線になりました。
入線したモハ1は、昭和29年(1954)に現役を退きます。除線となった電車の行き先は、スクラップ工場です。ただ、その頃は人件費より材料費が高価で、地域には木造の構造物を再利用する文化がありました。この精神は”もったいない”と表され、やがて”mottainai”という国際語に昇格します。この庶民文化を背景に、退役したモハ1は、今度は蒲原鉄道の倉庫への転用を果たします。
平成11年(1999)、蒲原鉄道は全線廃線となり、鉄道関係の物品や構造物はほとんどが処分され、モハ1も取り壊しの危機を迎えます。この窮状を救ったのはかつての利用者、それに全国の愛好者が挙げた”もったいない”の大合唱でした。
平成12年、その声にあと押しされた蒲原鉄道は、倉庫となっていたモハ1の譲渡を決断します。譲渡先の加茂市では、車体を蒲原鉄道の駅(冬鳥越駅)の跡地(冬鳥越スキーガーデン)へ移し、各地のコレクターから台車やパンタグラフを取得して復原しました。しかし、加茂市に屋根を架ける体力はなく、展示はやむなく雨ざらしとなり、強い日射しと冬季の豪雪にさられさて破損が進み、モハ1は三度目の危機を迎えています。
目指すところ
”もったいない”(mottainai)精神の継承と発展
モハ1は古くて、かわいくて、おしゃれです。しかし、先人が維持に尽くしてきた理由は、地域社会のたどった、平坦でない道のりを車体が反映しているからです。モハ1の姿から、淡々と、粘り強く暮らす山あいの庶民文化が浮かんできます。
車体は数年おきに修繕されてきましたが、このモデルは限界にきています。そこで本プロジェクトでは、(1