う事になった経歴にルーツがあります。
神奈川県秦野市で生まれ育った私は小学生からミニバスを始めました。
中高時代はあまり素行が良くないで生徒ではありましたが恩師や仲間に助けられて、高校自体には当時は無名高校ながら神奈川県ベスト4の成績を残すことができました。
神奈川県の秦野高校時代は、現在東京の成立学園で指導する永田先生に導かれ「自分の頭を使って考えバスケをプレーすること」を学びました。
良い指導者に恵まれたお陰でバスケについて深く思考することを学んだ体験が、今でもYouTubeやSNSでバスケのプレーを言語化し発信する活動につながっています。
大学では推薦で国士舘大学バスケ部に進学します。ところが一見順調かと思えたバスケ生活は大学時代に一度大きな挫折を経験します。
念願だった大学バスケ部には馴染めずそのまま退部。その流れで大学も退学してしまいます。
防水屋、トラックドライバーとして働く中で、どうしてもバスケの夢が諦め切れずにアルバイトをしながらストリートボールチーム『勉族』に加入。
今までとは違った「第三の場所」でバスケを再開できたことで、完全にバスケからドロップアウトせずに済むことが出来ました。
そうして当時はまだアンダーグランドだった3on3ストリートボールリーグ『LEGEND』にプレーヤーとして参戦。
仕事とバスケを続ける中で、ようやく念願だった5人制プロチームのトライアウトに合格することができ私のプロ人生が始まりました。
そのあとは冒頭にも書いた通り『信州ブレイブウォリアーズ(B1チーム)』の創設メンバーとしてプロキャリアを歩みます。
途中『横浜ビーコルセアーズ(B1チーム)』に移籍するも再び信州に戻り、2015年からは3季連続でチームキャプテンとして信州のチーム発展に貢献してきました。
そして2018年に3人制バスケで東京五輪への出場を目指す為に5人制バスケを引退し、現在に至ります。
多くのプレーヤーはバスケを続けていく中で全てが順調にいく訳ではないと思います。
今の中高生にはBリーグを目指したい若者が多くいるとは思います。
その中で私のように途中で挫折をしそのままバスケプレイヤーとして日の目を見ずに終わる人も沢山生まれるはずです。
その中でその人の支えになるのは途中ドロップアウトしても、その後に復帰し真剣にバスケに打ち込むことができるバスケ環境の充実だと私は思います。
私の場合はそれがストリートボールであったように、今ではストリートボールに加えて3x3という環境もある。
自分にはそのような「第三の場所」としてのバスケ環境を若者の為に作る使命があります。
この未曾有のコロナ禍において、多くのバスケ大会は中止となり部活動を継続できないチームも数多く生まれました。
私の所属する3x3のプロリーグも世界的にカンファレンスが中止となり、試合がほぼない一年間を過ごしました。
試合がない中で私は数多くのクラブチームや全国の高校部活動に足を運び、私自身のスキルをレクチャーするクリニック活動を実施しました。
そこで私が見たものはコロナに打ちひしがれて落ち込む若者たちの姿ではありませんでした。
全国で13箇所、合計参加人数は300人以上へのスキル指導の実施。
その中で私は”多くの若者達がこのコロナ禍でもバスケを楽しみ前向きにスキルを習得しようと試む姿”をこの目で見てきました。
そして私の指導を通じて短時間で劇的に上達していく若者達の姿を見る中で、私には一つのイメージが頭に浮かんでいました。
それは彼ら