ことがうかがわれます。
今回修復を目指す沢山不動尊の不動明王三尊像は、その安岡良運が文化元年(1804)に制作したことが当時の地元の僧侶である仏眼祖睛によって記されています。
明和6年(1769)制作の三日月神社の像とは作風が異なる一方、寛政6年(1794)の大念寺の像とは近いことを勘案すると、三日月神社の像は初代の安岡良運の制作で、大念寺と沢山不動尊の像は2代目ということがいえるかもしれません。
像自体の銘については現時点では確認されていないものの、このあたりも修復過程で明らかになる可能性があります。
このように不動三尊像は大槌町の歴史文化を語る貴重な文化財であるとともに、江戸時代後期から末期に活躍した仏師の動向や作品を知ることのできるものともいえます。
■ 不動明王三尊像の状態
三尊のうちの不動明王像は45.3cmの高さです。
像は制作されてから200年以上が経ち、前回の修復からも40~50年程度が経過していたものと考えられます。
そこに津波による海水を浴びたことになります。
被災時やその後の状況ははっきりとしていないのですが、いずれにしても一旦水を含んだことなどにより様々な損傷が生じています。
今のところかろうじて自立していますが、構造的には様々な箇所が外れかけており、放置すれば今後倒壊や部材が失われる状況にあります。
像と台座を接続する部材が外れてしまっており、不安定な状態
像と台座を接続する部材は外れ、足先も外れかかっている
そもそも、津波以前からの状態としても様々な問題があります。
まず後世の修復時の問題です。
昭和期頃の修復時に絵具が分厚く塗られ、彫刻の谷間が埋まり、厚ぼったく不明瞭な形状になってしまっています。
分厚い絵具によって、制多迦童子の顔の形が不明瞭になっている
分厚い絵具によって、矜羯羅童子の顔の形が不明瞭になっている
またその絵具が剥離・剥落を生じています。
後世の絵具により制作当初の造形が著しく損なわれている状態です。
後世に塗られた絵具に剥離・剥落が生じている
光背も大きく改造されており、これも制作当初の造形を損ねています。
後世の修復時に改造されてしまった光背
失われている箇所も多くあります。
不動明王の左手、持物(宝剣・羂索)、制多迦童子の金剛棒、矜羯羅童子の右手指などがそうです。
不動明王の左手、右手に持っていた宝剣、左手に持っていた羂索が失われている
矜羯羅童子の右手指先が失われている
■ 修復について
仏像などの文化財の修復には、高い技術と専門性が必要です。
そこで、各地の仏像修復をおこなっており、また大槌町の仏像も手掛けている「株式会社京都科学」(担当:那須川善男氏)に、修復処置をお願いします。
修復内容としては、失われた箇所を制作して補うなどもしたいところですが、そこまでするとかなり修復費が高額になってしまいます。
そのため、今回はまず最低限の内容として、像の安定化を図り、今後安全に安置・展示できるところまで持っていくことを目標にします。
具体的には下記の工程を予定しています。
①修理前写真撮影。
②光背背面の赤外線撮影。
③筆や刷毛を用いて表面の埃を除去。
④様子を見ながら慎重に後補彩色を除去。
⑤製作当初あるいはそれに近しい彩色層の剥落止めを行う。
⑥矧ぎ目に従って解体を行う。
⑦全体の詳細な調査を行う。
⑧解体写真撮影。
⑨解体した部材の組立を行う。
⑩木屎漆で矧ぎ目を充填し形を整える。
⑪矧ぎ目に充填した木屎漆の上にサビ漆の塗布・砥ぎを繰り返して滑らかな