なでいる時も、心はずっとひとりぼっちでした。
高校最後の試合の3ヶ月ほど前、わたしは腰に痛みを抱えていましたが
今休むことはできないと、練習を休むことはありませんでした。
県大会のかかった試合前日、わたしの腰は歩くのも困難なほどに悪化してしまいました。
ペアのおかげでなんとかその試合を乗り切ったものの、後日病院での診断結果は「分離症」というものでした。
レントゲンで見るわたしの腰の骨は離れており、もう離れたものはくっつかないとのことでした。
分離症は疲労骨折の状態のまま練習を続けると発症してしまうようで、
そこからわたしはスポーツを続けることは困難になりました。
結局、高校最後の試合は県大会止まりでインターハイとは程遠い結果となりました。
試合が終了した時、悔しさと虚しさがこみ上げてきましたが、どこかで安心したような気もしました。
コーチは最後に「ここでのことは必ずどこかで活きるから」と伝えてくれました。
その時のわたしは、その言葉を全く理解できずにいました。
大学生になり、暫くスポーツをしていなかったことで腰に痛みはなく
もう一度体育会のソフトテニス部に入りましたが、
程なくして歩けない程の激痛を抱えることとなり部活を辞めるという判断をしました。
ソフトテニスが教えたくて教員になりたいという夢がありましたが、
部活を辞めるという決断と同時にわたしの夢は消え去りました。
入学から一年以上経って音楽系のサークルに飛び込む勇気もなく、
弾き語りがしたく高1の頃に親に買ってもらっていたギターで、ひとりマイペースに練習を始めました。
弾き語りをしてる時間は楽しく、これを仕事にできたら良いなと考えるようになりました。
大学生活、ひとりぼっちでいるということが珍しくない環境に生きやすさを覚えました。
それでもやはりゼミのような少人数の授業になると、どうしても生きづらさを抱えてしまうものでした。
今から約一年前、わたしが大学4年生になる頃
ちょうどコロナウイルスによる緊急事態宣言により自粛生活が始まりました。
その時に配信アプリツイキャスを使って、弾き語り配信を始めました。
配信を始めた初日、「閲覧1人」という数字に全身が赤くなるほど緊張していましたが
応援してくれる人が少しずつではありますが着実に増え
ぼやっとしていたわたしの夢は明確なものに変わっていきました。
そしてわたしを応援してくれる人がいるおかげで
現在ではライブハウスでのライブ活動や、ストリートライブなどをおこなえるまでになりました。
そんなわたしが目指す音楽は「人の孤独に寄り添う音楽」です。
その孤独は、紛れもなくわたしが学生生活で抱えてきた孤独です。
わたしはきっとひとりぼっちで寂しい心を理解できると思っています。
ひとりぼっちは暗くて怖かったけど、ひとりぼっちが寂しくて良かったと今では思います。
あの日のコーチの言葉も今なら、本当だったと分かります。
音楽を始めるのが遅かったという気持ちもありますが、もしソフトテニスと本気で向き合っていなければ今の音楽は作れていません。だから今スタートラインに立っているのです。
わたしの作る音楽は暗いテーマのものが少なくありませんです。
それはわたし自身、暗い気持ちの時に明るい曲を聴いても明るい気持ちにはなれなかったためです。
いつだって辛く悲しい気持ちを救ってくれたのは、寂しく苦しい気持ちを歌った音楽でした。
わたしは引っ張るのではなく寄り添ってあげたいのです。
わたしの22