724年開基定福寺境内のユニバーサバデザイン化、駐車場増築と運動場併設のお願い

724年開基定福寺境内のユニバーサルデザイン化、駐車場増築と運動場併設のお願い
定福寺は駐車場の整備やトイレの整備、境内のユニバーサルデザイン化を進めてきました。また山間地域で極限られたスポーツしかできない子供たちに、駐車がない時はスポーツ指導ができる場所として開放したいと境内整備を3年間続けてきましたが、資金が不足し整備ができなくなっています。是非、皆様のお力をお貸しください


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724年開基定福寺境内のユニバーサバデザイン化、駐車場増築と運動場併設のお願い
6 ~ 8 分
はじめに・ご挨拶

 定福寺は、高知県にある真言宗智山派の寺院で、724年の開基とされています。3年後に開基され1300年となります。定福寺のある豊永郷(大豊町)は、吉野川に面した急峻な山間地域にあります。吉野川の両岸の豊永郷 豊永郷は、江戸時代山内家との関係が特殊であり、中世の文化が多く残った地域として、自然環境だけではなく文化的にも貴重な地域となっています。豊永郷の中心地にあった寺院が定福寺です。かつて定福寺には本堂(江戸中期山内家により再建)のほかにお堂が12宇、仁王門、鐘楼堂、持仏堂(現大師堂)、教院などがありました。周辺には僧坊があったことが、現在の屋号などからもわかります。持仏堂 教院には多くの経典が収蔵され、一つの部屋は寺子屋などの学ぶ場所だったようです。また江戸末期の記録に剣道の練習に定福寺に来たという記録もあります。江戸期から明治期の時代の変化は、高知県内には大きな影響がありました。記録によれば、真言宗は250数ケ寺が廃寺となり、残った寺院は16ケ寺とあります。高知県の吉野川流域では、定福寺だけが廃寺を免れています。免れた理由は、豊永郷に住んでいた人々が嘆願を提出し、お米を持ち寄り僧侶の食事を準備し寺を護ったそうです。しかし、仁王門・鐘楼堂・持仏堂など本堂以外は廃仏毀釈の折、焼失してしまいました。貴重な書物などは一部しか残りませんでしたが、多くの仏さまは現在まで残りました。その後現在の持仏堂は、明治時代に武家屋敷を移築していただ、仁王門、鐘楼堂は昭和に再建されました。 また多くの仏具に助力を頂いた方のお名前が記されており、この場所を行きかっていた人々の助力により、現在の姿として修復されたことがわかります。
江戸時代の記録では豊永郷には9千人の人が住んでいたことがわかります。昭和30年代のピーク時には2万数千人の人口がありました。しかし、現在3千数百人の人口となっています。高知大学の元教授が豊永郷を調査している時に「限界集落」という言葉を使用し始めたようです。
定福寺に隣接する地に、NPO法人が運営する民俗資料館があります。昭和30年代頃、地域の人々の暮らしが変化をはじめたことに気づいた先々代住職が、地域で使用されていた茶釜を求めてきました。依頼、前住職と共に不要になった道具を300点ほど収集し、当時境内にあったユースホステルに展示いたしました。それを観たユースホステルを利用していた学生たちの協力により、周辺地域の民具を収集活動が始まりました。12,000点以上が収集され内2596点が、重要有形民俗文化財の指定を受けました。5年前までそれらを保存していた民俗資料館は、半透明の波トタンの屋根で直射日光が当たり、壁はベニヤ板の建造物でした。定福寺では、人口減少・高齢化が進む豊永郷の人々の生活を残し、活かすために活動をはじめました。途中NPO法人に引き継がれ、現在の豊永郷民俗資料館が再建されました。この活動を始めたきっかけは、定福寺を護って頂いた方々の文化を今度は、定福寺が働きかけをして残さなければならないと考えたからでした。この豊永郷民俗資料館がある場所が、教院のあった場所の片隅になります。豊永郷民俗資料館 テーマは人と自然道具と技術 定福寺は、社会の変化に合わせつつ、徐々に元の姿を取り戻しています。真言宗は江戸時代まで世襲制ではなく、師弟関係により引き継がれてきました。定福寺の住職の多くは高知市内の五台山竹