震災から10年の石巻でつくる「幸福」を願う写真展と写真集をつくりたい

すけ)です。

写真を撮り始めてから20年、震災後に石巻に移り住んでからもうすぐ10年。そんな僕が2020年の3月末、まさか人生初の「果たし状」を受け取ることになろうとは思ってもいませんでした。

綾子さんが我が家の玄関の扉をちょっとだけ開けて「けいちゃんにこれを渡したくて」と手渡されたのがこの果たし状です。花をつけたばかりの桜の小枝が添えられていました。「果たし状」の文字にクスっとなったと同時に、読んだ瞬間全身に鳥肌が立ち、涙が溢れそうになってしまいました。写真家人生の中で一番嬉しかった瞬間だと思います。

今は石巻でお家を借りて住みながら、水産業の写真を中心に写真や映像をつくっていますが、大学卒業後にはじめて一眼レフカメラを手にとって以来、世界のあちこちに顔を出してはシャッターを押してきました。ネパール、カンボジア、南アフリカ、内モンゴル、世界中どこに行っても撮らせて貰った人たちに写真をプリントして渡しに行くというのが僕のライフワークです。

突然の再訪にビックリしながらも、写真を渡したときに喜んでくれてグッと心の距離が近くなるあの瞬間。人見知りだった僕が、言葉が通じなくてもへっちゃらだと思えるようになった写真の力。

過去にはなかなか探し出せずに数年越しにやっと本人に渡せた写真もありますが、そんな再会の瞬間は、なおさら僕の人生にとっての大切な宝物です。そうやって「撮らせて貰って渡しにいく」を繰り返すうちに言葉も人種も境遇も越えて「友人」になることができるということを何度も実感していきました。

2011年4月25日@石巻市渡波 / 重たい支援物資を住民さんと一緒に運ぶボランティア

災害ボランティアの記録広報班として石巻で活動していた間も、今までの経験を活かして撮らせて貰った写真を毎日のように写真屋さんでプリントして渡しにいっていました。「あらまぁ!お兄ちゃんありがとうね。ご飯でも食べていきなさい」とか「男前に写ってるなぁ。写真一枚も無くなったからやぁ。はっはっは!」なんていいながら、家の片付けの手を止めて目を細めながら喜んでくれるみんなの顔は今でも忘れられません。

2011年 / 避難所で出会った顔なじみのみなさん

そのまま2012年に石巻に移住したあと、最初はお金も仕事も無かったけれど健康で大きな不安も無く生きてこられたのは写真がキッカケで出会ったこの街の人たちの優しさのおかげです。家にお邪魔すると「なんにも無いけど」と言いながら大量に出てくる作り置きのおかず。「ちょっと持ってけ」と言いながらズシっと渡される海産物の量。そして、お家の玄関や壁に僕の撮らせて貰った写真を飾ってくれているのを見つける度になんとも言えない嬉しさがこみ上げてきます。

そろそろ10年。気づけばあのとき「被災者とボランティア」の支援する側と支援される側だった関係は、いつの間にかお互い様の「ご近所さん」へと変わっていました。

今でも忘れられないエピソードがあります。しばらくぶりに避難所時代の仲間が集っているところで、綾子さんの夫の伸一さんが震災から間もない頃の自分の写っている写真を見て、驚いたような様子で「オレってこんな顔してたんだ」と言ったんです。

2011年10月10日 @渡波保育所 / 避難所が閉鎖される前日、再出発式の日の遠藤伸一さん

僕にはその言葉が「あんなタイミングで、こんな顔ができていたんだ!知らなかった」に聞こえたんですね。僕はただ写真を撮らせて貰って渡しただけなのに、伸一さんの様子は過去の自分自身の姿に勇気づけられたようにも見えました。そのあと周りにいたみんなが寄ってたかって、当時の写真を見ながら昔話に花を咲かせていた姿を今でも思い出します。当時、写真家としてこの街でシャッターを押し続ける意味や、役割をうまく見つけられずにモヤモヤしていた心がストンと落ちた気がしました。

やっぱり、「写真を喜びを増やす道具として使おう」

あのとき感じた気持ちは今でも僕の心のど真ん中にあります。

(左上)漁師の母子 / (左下)再出発式でホロリと流れる涙 / (右)みよちゃんのお家で
【実行委員会について】〜ご近所さんと石巻で「10年の幸福写真」〜

2021年1月18日 / 実行委員会の日に集まった個性豊かなメンバー

このプロジェクトの実行委員会が発足したのは2019年6月のこと。呼びかけに賛同してくれたメンバーは不思議なご縁で繋がった木工職人、海苔漁師、牡蠣漁師、漁業女子、看護師さん、NPO職員、元新聞記者、本屋さんなどなど年齢も職業もバラバラなユニークな顔ぶればかりです。遠藤さん夫婦の自宅跡地にある「チームわたほい」のプレハブで、また時には慣れないオンラインでの会議を重ねてきました。会場を決めるのも、チラシの中に載せる内容も